
寄稿 40年の思い出
昭和60年、社会復帰を目指す重度身体障害者更生援護施設「青山彩光苑」、職員20名でスタート。志高く、利用者の新しい可能性と夢の実現を追求した。
植樹した桜は、力強く大地に根を張り、40年の風雪・大震災に耐え、我々を見守っている。2025年能登半島地震の揺れは、さぞきつかっただろう。
職員は、介護経験のない素人の集まりであったが、日々の体験を通してスキルアップ、サービス会議を通して利用者特性とできる能力を把握し、勉強会等の開催等で能力が向上し地域をリードする気概に溢れた。能力は必ず進歩する。成長期の組織は、まさに活気に溢れていた。
青山彩光苑浦山の土砂崩れ(1985年)、台風19号(1991年)、七尾ゲリラ大雪(2009年)、2度の地震被害、コロナ感染症には泣かされた。
それぞれが利用者の最高のQOLの実現を目指し、新しいサービスや支援を追求した。d 運動会・七夕・夏祭り・敬老会・年忘れ会などの季節行事、スポーツ・レクリエーション、外出支援・旅行(国内・海外)・キャンプ・海水浴、社会生活訓練の利用者支援、福利厚生の研修旅行、新人歓迎会、新年会、忘年会、・・・時代とニーズに見合った取り組みの推進は楽しい。
昭和62年、第1回石川県リハビリテーション風船バレーボール大会の開催、昭和63年に七尾市風船バレーボール大会開催を働きかけた。コロナで一時中断したが、市町で継続して開催しているは七尾市のみであり、大変素晴らしい取り組みである。
第1回「障害者の日」の開催。平成5年12月3日公布の障害者基本法に「12月9日を障害者の日とする」が明記され、12月9日に記念すべき第1回「障害者の日」開催した。これは全国初の取り組みであり、以後、毎年イベントを開催している。
平成16年の障害者基本法改正で「障害者週間」となった後も、継続して障害者週間イベントを行っている。継続して行っているのは徳充会のみであると自負する。
タイプライターからワープロがパソコン、ポケベル・ガラケー携帯はスマホに、フイルムカメラはデジカメ・タブレット・スマホに。AI、ロボット、3Dプリンターの普及・・・。あっという間に、技術は進化する。
能登半島地震による事業閉鎖・事業縮小は心が痛む。
※徳充会のあゆみ・理事長挨拶を参照
昭和60年、七尾市内に青山町という地名があることを初めて知り、道路舗装の整備がされていない道を、赤い長靴を履いて施設に一歩踏み入れたことを、昨日のことのように思い出します。
山奥のポツンと一軒家ではないですがポツンと一施設、夜勤の時は不安な気持ちがよぎることが多かったです。
初年度に担当した利用者の方から、今でも時々連絡を頂くことがあります。また、精育園勤務時には、この年に入所していた方が訪ねて来てくれたことがあり涙を流したこともありました。人とのつながり、多くの人との出会いは、この仕事の素晴らしさでもあると思います。
更生援護施設での支援プログラムの中で、毎週土曜日(この頃は月から金、土曜日は半日勤務でした)に、50名を対象に実施していたレクリエーション、その一つである風船バレーボールが正式にルール化され、今では全国に普及し行われております。
七尾市でも毎年この大会が開催され、退職後は、ボランティアとしてこの大会に楽しく参加させて頂いています。
一人ひとりのニーズに沿った支援をチームで展開する、実現するためにはどうしたらよいのかと議論を交わし各種サービスを提供する、その賜物が利用者の方々への幸せにつながっていきます。
「施設を出て一人で生活をしてみたい」、また「空を飛んでみたい」など利用者の方の思いを実現できた時の達成感は、忘れられません。
その声が喜び・やりがいにつながり、職員としても働きがいのある職場になるのではないかと思います。私は、そのような思いをたくさん経験させて頂きました。職員として、徳充会に勤務させて頂き本当に感謝しています。
私が徳充会に就職を決めた理由は福祉の仕事をしたいと考えた時に障害者部門、高齢者部門があり、特別養護老人ホームやデイサービス、ヘルパーなど多岐にわたる事業を展開している点に魅力を感じたからです。
地域の幅広いニーズに応える法人の姿勢に共感し、ここでなら学びを深めながら成長し、長く働き続ける事が出来ると思い入職しました。
徳充会には年齢・性別・職種を問わず多彩な職員が在籍していることです。共通しているのは「人のために働く」という思いであり、その根底にある思いやりが利用者様や家族様に安心を届けています。
明るく、個性的な職員も多く、年齢など関係なく、様々な人と共に働く中で楽しいことや新たな発見なども多くあり、私自身大きな学びと成長の機会を頂いています。
入職してすぐに認知症症状の強い方の支援を先輩職員と共に担当させて頂きました。その経験を通して、介護や支援の難しさ、ご利用者様や家族様との信頼関係やケアマネージャー、他職種との連携の大切さ、仲間と協力して行うチーム力の重要性を深く学ぶことができました。
しかしそのたびに職員1人1人が力を合わせ、ご利用者様の生活を守り抜く姿勢を示してきました。
そうした経験は私だけでなく法人の大きな成長に繋がり、私たちに強い自信と結束力を与えてくれたと感じています。
現在はデイサービスセンターもみの木苑で業務を行っています。ご利用者様の「もみの木苑は楽しいよ」と頂ける言葉や笑顔、ご家族様の「ありがとう」という安心の声
そしてご利用者様の「やりたい。楽しい」を実現する為に努力を惜しまない職員の頑張り、これらすべてが日々の私の大きなモチベーションとなっています。
常に進化を続ける姿勢に学びながら私もこうした変化に対応できるよう、パソコン技術を磨き、業務改善やサービスの質の向上に少しでも貢献できればと思います。
40周年という大きな節目を新たな出発点とし、これからも地域に信頼され、必要とされる法人であるよう徳充会の職員として尽力できればと思います。
私が青山彩光苑に入所したのは、昭和60年5月のことです。彩光苑が創立されるという情報は、昭和58年の北國新聞で知りました。七尾鹿島の親御さんたちが、「親亡き後、安心して預けられる場所を」と集まり、行政や恵寿総合病院の院長に要望して実現した施設だと聞いています。
それまでの私は、6歳から金沢、小松、野々市、加賀と、加賀地方に集中していた障害者支援施設を転々としてきましたから、地元に施設ができることに、特別な想いがありました。
私は即答を避け、迷っていました。しかし、ゴールデンウィークが終わり、父と福祉事務所の方とで青山彩光苑へ見学に赴きました。
当時は未舗装のガタガタ道を通り着いた真新しい青山彩光苑は、廊下も広く、明るい雰囲気でした。案内してくださった親御さんの会長・Sさんの熱意も感じ、家族と相談の上、5月20日に入所を決めたのです。
理学療法士(PT)やクォリティ・オブ・ライフ(Q.O.L.)など、新しい福祉のサービスや用語に触れ、知識を深めました。
当時の私は両足に装具を着け、両松葉杖で歩行していましたが、同じ境遇の仲間と苑内を歩行練習したことも良い思い出です。
入所者による演劇「ヘレンケラー」を上演しました。台本や筋書きは、私たち入所者が数カ月かけてワープロで書き上げ、職員の承諾を得たのです。
私たちの行動力が職員を動かし、大工の職員が立派な舞台を作ってくれるなど、皆の協力を得て、地域の方々の前で上演できました。この演劇クラブは3年で活動を終えましたが、翌年には老人ホームでの地域公演も行いました。
作業療法士や生活指導員が中心となりルール作りを進め、私たち入所者もNECの「文豪」やシャープの「書院」といったワープロで、夜遅くまでルールブック作成に協力しました。何度も校正を繰り返し、ルールブックを完成させ、七尾市内の施設や病院を招いて第1回大会を開催しました。
この風船バレーボールは、私たちの創意工夫と情熱から生まれた、彩光苑の大きな財産です。この熱意こそが、徳充会の原動力だったと確信しています。